突然ですが、自分は有能だなとか、よく出来ると感じるのはどんな時でしょう😊
「有能感」とは、自己がおかれている環境に対し、効果的に対処したり、支配できる能力もしくは力量と言う説明があります。
確かに、私たちは学校生活で、効果的な勉強法をしてテストで高得点をとったり、
会社でたくさんの作業を効果的に進め時間内に終わらせられたり
家庭で、家がきれいに整理整頓されていると有能感があります。
もし、効果的に対処できなかったり、コントロールできないと、有能感は感じられず逆に無能感、無力感を感じたりします。
これをそのまま子育ての場面に当てはめると、
自分がおかれている環境で、子どもがしてほしくないことをして、それをすぐに止めさせようとしても、うまくいかない場合、無力感を感じると言えるでしょう。
逆に、子どもをうまくコントロールできて、行動を支配できると有能さを感じられることになります。
でも、
このように子どもを環境の一部と同じように捉えて、コントロールすることが、果たして養育者として「有能」なのでしょうか。
子どもには子どもの考え方や感じてることがあって、
年齢によっては、人が自分と違う気持ちや視点を持つことの理解は、まだできない段階もあり、
自己主張を感情のままストレートに表現して伝える段階もあり、
到底大人にコントロール不可能、効果的な対処もできないことは、子育てでたくさんあります。
子どもがしてほしくないことをした時、その場ですぐ大人の思い通りにしようとすると、
お互いに、したいことを邪魔されたと感じ、対立し、感情のぶつかり合い、力のぶつかり合いになりやすいと思いませんか。
暴力も罰もいらない前向きなしつけ『ポジティブ・ディシプリン』では、
子育てにおいて『有能さ』は、
親子の衝突の時、子育ての長期的目標に近づくやり方で、自分が対処したか否かで考えます。
判断軸は、「子どもがすぐに親の言う通りにした」という子どもの行動結果ではなく、
「自分が自分の子育ての目標に向けて、建設的に動いた」という自分目線の目標への過程にあります。
『子育ての長期的な目標』は、ポジティブ・ディシプリンのキーワードです。
長期的な目標とは
1つには、
自分の子どもが20歳になった時なっていて欲しい性格、特性、人柄です。
もう一つは、子どもが20歳になった時になっていたい親子関係です。
皆さんは、どんな人になっていて欲しいと思いますか😊
因みに私は「自分を大切にできる。同じように人も大切にする人」になって欲しい!が長期的な目標です。
子育てには、どうしようと迷う無数の分岐点があります。ここは見逃そうか、怒ろうか、取り上げようか等々。
長期的な目標は、そんな分岐点で、自分がその時できる最善の答えを導いてくれますし、間違った判断を防いでくれます。
例えば、うちの子が下の学年の子に石を投げたと、相手の保護者さんに言われた時、「マズイ!何でそんなこと‼️」と冷や汗をかきました。帰宅して子どもに話を聞くと、
帰り道、その下の学年の子がニヤニヤ友達と笑いながら見てきて、バカにするように言葉を投げかけてきたそう。
親としての対応は無数にあって、例えば
「下の子には優しくしなきゃダメでしょ」と叱ったり
「お母さんが、あっちのお母さんに言われたんだから、もう止めてよ!」とか
「とにかく謝りに行きなさい」とか
ゴツンとゲンコツして「当たったらこんな風に痛いんだよ!」と怒るとか。
私は、長期的な目標(「自分を大切にできる。同じように人も大切にする人」)を思い出し
それに近づく対応を考えます。
「バカにされて、怒るのはそりゃそうよね👍人をバカにするのは良くないんだから。
ただ、石投げるのはだめ。目に当たったり、血が出たり、体に何かあったら大変だもの。
相手には落ち着いて『バカにすんな』って言ったらいんじゃない」と。
子どもが大きくなって、
受験の時や進学校に入学して勉強について行けているか、心配になったけれど、
勉強一辺倒でなく、自分の好きな音楽を聴いて自分を大切にするのは良いことだと気づき
「勉強したら」と言い続けることはないです。
そんな風に、『長期的な目標』は、私の子育ての軸となって、
自分がその時できる最善の答えを導いてくれ、間違った判断を防いでくれています。
先日、私が仕事と研修で家を長期あけたとき、
高校生になった子どもは、家事の大変さや家事が回らずイライラする家族を見て何かを感じたらしく
帰ってきた私にハーゲンダッツをプレゼントしてくれました😄
そんな子どもは、周りの友達が英語ができるので
「小さい時に英語を習わせてくれればよかったのに」と言い出しました。
私は、「勧めたけど興味持たなかったよ。やりたくないこと無理やり引っ張って行ってやらせたくなかったから」
と話すと、「そうかも。でも、自分の子どもには英語させる」と言ってました😄
私は完璧な人間でも母親でもない。
だから、子どもに英語を習わせて、英語を聞く良い耳と英語を話せる良い構音機能を持たせることができなかったかもしれない。
でも、私自身が無理なように、子どもも完璧は無理でしょう。
つまり、優しく逞しく体も丈夫で頭も良く、英語も話し、プログラムも作れ、スポーツができる、
そんな子どもを求めることはしなくていいと思うのです。
自分を大切にでき、同じように人を大切にできれば、
自分が必要な時に英語を頑張ることもできるだろうし、人とのコミュニケーションのために英語を学ぶことができると思います。
自分の好きな音楽を日常に楽しみ、家事する母親にアイスをプレゼントできる優しさがあれば、十分!!
子どもを環境の一部にしない。
環境でなく、子どもをひとりの「人間」として受け入れる方が楽だと思います。
自分とは違う個性を持ち、自分の人生の主役として色んなことにチャレンジする「人間」
同じ場所で同じことを目にしても、
自分とは違うところに目の位置があって、
自分とは別の脳を持って
感じ方も考え方も同じじゃない、未知の可能性をパンパンにつめた「人間」だと。
息子には、「小さい頃に英語を習わしておいてくれればよかったのに」と言われましたが、
私は私なりに納得できる子育てをしたと胸を張って言えます。